2019.7.15にアップしました。
江戸時代は末広町付近まで神田とされますが、神田川が通されると川の北側+神田明神の丘陵地は外神田と呼ばれるようになります(命名・受け入れ側とも日本らしい)。
神田明神は氏子地区(ほとんどが低地)を見守る丘の上に位置し、江戸初期の下町(神田・日本橋・京橋)で利用する生活用水路に近ため水の守護役としたならば、付近をまちづくりの要と考えた家康の眼力の鋭さがよく理解できます……
神田明神は氏子地区(ほとんどが低地)を見守る丘の上に位置し、江戸初期の下町(神田・日本橋・京橋)で利用する生活用水路に近ため水の守護役としたならば、付近をまちづくりの要と考えた家康の眼力の鋭さがよく理解できます……
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