2016/02/29

爆買い最後の春?──新橋

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2016.2.29にアップしました。

 中国の春節休み中の銀座八丁目付近には、視界の中はすべて中華系観光客で埋め尽くされているのでは? という光景が広がります。
 歩行者天国手前では、次々到着するバスから観光客がゾロゾロ降りてきますし、観光客目当ての中華系路上セールスが待ち構えていたりと、言葉ばかりか空気にも「ここは日本じゃない!」との喧噪感が漂います。
 中国バブルの雲行きもあやしそうなので、春の風物詩(?)の爆買いツアーも見納めとなるかも知れません。売り上げが落ちる時期を「二八(にっぱち)の救世主」に助けてもらったんだから、自立せにゃと言いたいところですが……

2016/02/22

オヤジの聖地包囲網──虎ノ門

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2016.2.22にアップしました。

 新橋周辺では、汐留再開発、イタリア街に続いてシャンゼリゼと、オヤジの聖地包囲網が迫り、JR高架橋の耐震補強工事によりガード下の古い店舗が整理されたりと、再開発は秒読み段階なのか?
 近ごろの繁華街では、高度成長期を支えた建物が更新時期をむかえると、地域のイメージアップに再開発計画を考えたくなるらしい。
 オヤジの街頭インタビューで露出が多いことよりも、「新しい街に生まれ変わりました!」と、胸を張りたいようです。
 再開発後のこぎれいな飲み屋で、行儀よくお飲みなさいとされても、居心地の悪いオヤジたちは立ち寄らなくなります。
 動き始めたら、あれよあれよとオヤジの聖地は消えゆくのか……(右は愛宕神社の結婚式)

2016/02/15

坂との付き合い方 ──紀尾井町

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2016.2.15にアップしました。

 上智大学脇から大刀洗川支流の清水谷が始まり、ホテルニューオータニ前に清水谷公園の緑が残ります。明治維新の立役者大久保利通は付近(紀尾井町)で暗殺されたため、公園に追悼碑が建てられます。
 紀尾井町の名は江戸時代、紀伊(紀州徳川家)、尾張(尾張徳川家)、井伊(井伊家)の屋敷があった地、に由来するそう。
 屋敷の作庭には、急な斜面もおもむきとして活用できますが、そんな場所を町にすると、突然の階段や無理矢理坂道にする箇所が生じます。旧赤坂プリンスホテルの建て替えでは、「これが現代の坂との付き合い方」と言うかように、なだらかな坂の部分まで掘り返してビルを建てていました(赤坂じゃなくなっちゃう?)……

2016/02/08

新たな夢を築く地──国立競技場跡地

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2016.2.8にアップしました。

 解体・整地後は、 2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会に向け、新たな夢を築き始めるはずの国立競技場跡地は野ざらしのままです。
 競技場設計やエンブレム見直しの際に「透明性を重視」と耳にしたが、競技場設計ではA案・B案をチラッと見せて、すぐに決定されました。不正防止のため応募詳細を公表しない姿勢は理解するも、国民が抱く不信感の払しょくにもう少し努力が必要ではなかったか……

2016/02/01

谷で接した「天と地」──赤坂御用地

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2016.2.1にアップしました。

 鮫ケ橋は元の鮫川に掛けられた橋で、付近で信濃町駅方面からの千日谷と合流するためたびたび氾濫したらしく、下水となった現在も隣接の公園地下には調整池が設置されます。元の流れは赤坂御用地の池に注ぎ外濠に至りましたが、江戸期の付近には火葬場・岡場所(私娼の歓楽街)があり、明治期は東京最大の貧民窟だったとのこと。
 赤坂御用地の正門である「鮫が橋門」はその橋のたもとにあります。1873年(明治6年)皇居が焼失し明治天皇がこの地に移った際は、治安の悪そうな門を出入りしたのだろうか?
 当時の元帥にそんな心配は無用かも知れないが、庶民はどんな思いで眺めていたのだろう……(右は迎賓館)