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【東京都】──「神田川を歩く_3」
2015.1.26にアップしました。
一見して旧軍用地の払い下げと分かる広大なグラウンド群は、この時のために維持されてきたようです。
一帯をまるっと『高井戸公園』とする整備計画は、付近の道路整備計画を抱え込んで動き出します。
便乗するのは、隣接する玉川上水沿いに「放射第5号線」を建設するものと、中央自動車道が開通し首都高速道路と接続(1976年)当時から、地元の反対により着工できなかった「高井戸IC下り線入口」建設です……
06年夏に生まれ育った東京圏を離れ大阪に移り住んだ際に、これまでにもまして会う機会の少なくなった知人への近況報告として、立ち上げました。
08年夏に東京圏に戻りましたが、継続しています。
現在、京都、奈良、瀬戸内、兵庫、滋賀、中国地方、福井、沖縄等を公開しています。
2015/01/26
2015/01/19
2つの水路──井の頭公園〜久我山
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【東京都】──「神田川を歩く_2」
2015.1.19にアップしました。
水源地(井の頭池)をわき出た水は低地へ向かうため、河川の場所(神田川)は周辺の谷底にあたり、海(流れ込む隅田川)までの標高の低い地点を結ぶ最短の線と言えます。
一方、江戸時代に建設された玉川上水は、多摩川の水を市中の飲料水として運ぶため、その間の最も標高の高い地点を結ぶ分水嶺(れい)付近を通されました。
性格の異なる2つの水路(谷底と分水嶺)が、井の頭公園付近で直線距離300m、高度差10m程度に近接しています。
これは、井の頭池水源の地下水脈が浅い場所にあることを意味し、大きな建造物を建てたら地下水脈はひとたまりもない、ことを示しています……
【東京都】──「神田川を歩く_2」
2015.1.19にアップしました。
水源地(井の頭池)をわき出た水は低地へ向かうため、河川の場所(神田川)は周辺の谷底にあたり、海(流れ込む隅田川)までの標高の低い地点を結ぶ最短の線と言えます。
一方、江戸時代に建設された玉川上水は、多摩川の水を市中の飲料水として運ぶため、その間の最も標高の高い地点を結ぶ分水嶺(れい)付近を通されました。
性格の異なる2つの水路(谷底と分水嶺)が、井の頭公園付近で直線距離300m、高度差10m程度に近接しています。
これは、井の頭池水源の地下水脈が浅い場所にあることを意味し、大きな建造物を建てたら地下水脈はひとたまりもない、ことを示しています……
2015/01/12
住民自慢の森──井の頭公園
【東京都】──「神田川を歩く_1」
2015.1.12にアップしました。
様々な公園を歩くと、人工的に整備された施設と、可能な限り手を加えない「ありがたさ」を感じる公園の違いが見えてきます。
付近にあるジブリ美術館の冠「三鷹の森」は、この公園そのものですから、地域住民の自慢に違いありません。
それも、武蔵野地区屈指の繁華街吉祥寺近くに、これだけの森と公園施設が保持されていれば、住みたい町ランキングで人気が高いことも納得ですし、町づくりの方針が正しかったと言えそうです。
歩くたび新たな魅力に出会える印象は、水辺が映す季節感によるものか……
2015.1.12にアップしました。
様々な公園を歩くと、人工的に整備された施設と、可能な限り手を加えない「ありがたさ」を感じる公園の違いが見えてきます。
付近にあるジブリ美術館の冠「三鷹の森」は、この公園そのものですから、地域住民の自慢に違いありません。
それも、武蔵野地区屈指の繁華街吉祥寺近くに、これだけの森と公園施設が保持されていれば、住みたい町ランキングで人気が高いことも納得ですし、町づくりの方針が正しかったと言えそうです。
歩くたび新たな魅力に出会える印象は、水辺が映す季節感によるものか……
2015/01/05
懐かしのジョージタウン──吉祥寺
【東京都】──「神田川を歩く_序」
2015.1.5にアップしました。
町に根付くサブカルチャーは、戦前(1937年)前進座(歌舞伎劇団)の進出で芽吹き、様々な大学の移転等で広まったとされます。
中央線沿線のヒッピー的カルチャーは、関東大震災以降の地方出身者が壊滅した下町を避け山の手に向い、歴史の浅い地域で新しい庶民文化を構築する際の、すき間に入り込み定着したのではないか?
伝統文化やしがらみも無く自由に活動できる地域でしたが、傍流とされる状況に異を唱えたかったのかも知れません。
そんな心情をドラマとしたのが『俺たちの旅:1975〜76年』で、落ちこぼれでも輝ける姿に、あこがれや勇気を与えてもらいました……
2015.1.5にアップしました。
町に根付くサブカルチャーは、戦前(1937年)前進座(歌舞伎劇団)の進出で芽吹き、様々な大学の移転等で広まったとされます。
中央線沿線のヒッピー的カルチャーは、関東大震災以降の地方出身者が壊滅した下町を避け山の手に向い、歴史の浅い地域で新しい庶民文化を構築する際の、すき間に入り込み定着したのではないか?
伝統文化やしがらみも無く自由に活動できる地域でしたが、傍流とされる状況に異を唱えたかったのかも知れません。
そんな心情をドラマとしたのが『俺たちの旅:1975〜76年』で、落ちこぼれでも輝ける姿に、あこがれや勇気を与えてもらいました……
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